「ブログを書いても誰も読まない」|それでも続けるべきか、noteに移るべきか悩んでいる

こんにちは、奨学金男です。

最近、ふと考えることがあります。
「このままブログを続けていて、意味があるのだろうか」
「もしかしたら、noteの方が多くの人に読まれるんじゃないか」

ここ数ヶ月、毎日のように記事を書いてきました。
貧困、奨学金、孤独、そして小さな幸せについて。
私自身の体験をもとに、同じように悩む人の心に届けばと思って書き続けてきました。

けれど、現実は厳しいです。
記事を更新しても、アクセス数はほとんど増えません。
毎日何時間もかけて文章を書いても、閲覧者は数人。
「誰も見ていないんじゃないか」と思うこともあります。
もちろん、0人の日もあります。

そんな中で目にするのが、「noteでバズった」「noteで書いたらフォロワーが増えた」といった話です。
同じように文章を書いている人たちが、noteで反応をもらっている。
それを見るたびに、心がざわつくのです。


noteの方が「見てもらえる気がする」理由

noteは、SNSに近い感覚で人とつながれる場所です。
フォロー機能があり、他人の記事に「スキ」をつけたり、コメントをもらえたりします。
一方で、私のようにWordPressでブログを運営していると、基本的に孤独です。

ブログは検索流入が命。
Googleに気に入られなければ、誰にも見られない。
一方でnoteは、プラットフォームの中に“人”がいる。
更新すれば、誰かのタイムラインに流れる。

この「人の気配」が、ブログにはほとんどないんです。

孤独の中で書いていると、「誰かに届いてほしい」という気持ちが強くなります。
noteの「スキ」やコメントが羨ましいのは、その証拠かもしれません。


「ブログが読まれない」のは努力不足なのか

正直なところ、自分が書いている記事は、決して手を抜いているわけではありません。
けれど、読まれない。

SNSで拡散しても、反応は薄い。
「誰も興味がないのかもしれない」と落ち込む夜が何度もありました。

でも、よく考えれば当たり前のことかもしれません。
貧困とか、奨学金返済とか、そういう話題は“暗い”んです。
みんな、自分の生活で精一杯で、他人の苦労話なんて読みたくない。

だからこそ、届かない。
けれど、それでも書きたい。

「誰にも届かなくても、自分のために書く」。
そんな気持ちで続けてきたはずなのに、気づけば“数字”ばかり気にしている自分がいました。


noteに移れば「救われる」のか

noteの良いところは、やはりコミュニティ性です。
書けば誰かが反応してくれる。
共感してくれる人が見つかる。
孤独なブロガーにとって、それはとても魅力的です。

ただ、noteにも落とし穴があります。
noteは“書けば読まれる”場所ではありません。
フォロワーがいなければ、結局は埋もれてしまう。
Twitter(X)などでの発信力がなければ、広がりません。

つまり、どこで書こうが、「誰かに読んでもらう努力」は必要なのです。

そしてもう一つ。
noteは“思想の場”でもあります。
文章の内容よりも、書き手の世界観や言葉の温度感が大切にされる場所。
一方で、私が書いているような“生活のリアル”や“経済的な苦しさ”は、あまり「ウケるテーマ」ではない。

バズっている記事を見ていると、どうしても“ポジティブなストーリー”が多い。
「苦労したけど今は幸せです」みたいな。
だけど、私にはまだ「幸せです」と言えるほどの余裕はない。
だから、どうしても違和感があるのです。


「誰かに見てもらう」ことの意味

結局のところ、私が悩んでいるのは「プラットフォーム」ではなく、「承認欲求」かもしれません。

見てもらいたい。
共感してもらいたい。
「頑張ってるね」と言ってもらいたい。

でも、現実にはそんな言葉はなかなかもらえない。
SNSでも、現実でも、孤独は続いている。

それでも、私が文章を書き続けているのは、“自分の整理”のためでもあります。
奨学金の返済、仕事のストレス、将来の不安。
頭の中に溜まっていく思考を、言葉にして出していかないと、心が壊れてしまう。

たとえ誰にも届かなくても、書くことで少しだけ前に進める気がするのです。


「数字」よりも「記録」としての価値

この記事を書いていて気づいたのは、「アクセス数」よりも「記録」としての意味です。

ブログは、自分の人生を“時系列で残せる場所”です。
noteもそうかもしれませんが、ブログはより色濃く、記事が自分の軌跡として残る気がします。

例えば、数年後に今書いた「生活が苦しい」という記事を読み返すと、
「この時期、本当にギリギリで生きてたな」と思い出せるかもしれません。
その感覚こそ、ブログの一番の価値かもしれません。

誰かに見られなくても、自分のために残る。
それは、SNSにもnoteにもない“個人の記録”の強さだと思います。


それでも、noteもやってみようと思う

結論から言うと、私は「ブログをやめる」つもりはありません。
ただ、noteも並行して始めてみようと思っています。

理由は単純です。
「どっちがいいか」は、やってみないと分からないから。

そうすることで、少しずつでも自分の言葉を広げられるのではないかと思っています。


おわりに──「見られない時間」も無駄じゃない

アクセス数が伸びないと、焦りや虚しさを感じます。
でも、今はその“見られない時間”が、あとで大きな力になると信じています。

誰にも見られなかった記事も、数年後に誰かが偶然見つけて、救われるかもしれない。
その可能性を信じて、今日も書きます。

見られることよりも、まず“書くこと”。
その積み重ねが、どんな結果につながるかは、まだ分かりません。

けれど、私は信じています。
「生きづらさを抱えながら、それでも言葉を紡ぎ続ける人間の姿」に、きっと意味はあると。

だから、これからも続けます。
ブログも、noteも。
そして、どちらにも届かなくても、まずは自分自身に言葉を届けたいのです。

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