コーヒーが高くて、今日も我慢した話|小さな贅沢すら遠く感じる日々

こんにちは、奨学金男です。

最近、「コーヒーが高くなった」と感じることが増えました。
値上げラッシュのニュースを見るたびに「またか」と思うものの、実際に生活の中で感じるのは、そうした大きなニュースよりも、コンビニや駅構内で手に取る一杯のコーヒーの値段です。

以前は、仕事の合間や出張の前に「ちょっとしたご褒美」として買っていたコーヒー。
それが、いつの間にか「今日はやめておこう」と我慢の対象になってしまいました。


缶コーヒーが苦手な理由

私は昔から、缶コーヒーがあまり好きではありません。
どうしても缶特有の風味が気になってしまうのです。

コーヒーをよく飲むようになった頃、コンビニで買ったブラックの缶コーヒーが口に合わず、それ以来ほとんど飲まなくなりました。

缶コーヒーは確かに安い。
自販機なら130円前後、コンビニでも150円前後で買える。
それでも、どうしてもあの独特の味がダメなんです。

一方で、コンビニで淹れたてのコーヒーは好きです。
セブンでもローソンでも、挽きたての香りがしてブラックでも飲みやすい。
「今日は頑張ったし、1杯くらい」と思って買っていたのが、ここ数年のささやかな楽しみでした。


気づけば、コンビニコーヒーも高くなっていた

それが、気づけば値上がりしていました。
昔は100円ほどで買えたホットコーヒーが、今は税込140円。

たった数十円の差ですが、「毎日」買うとなると結構な金額になります。

たとえば1日1杯、平日だけでも月に20杯。
1杯140円なら2,800円。
以前の100円時代なら2,000円。
差額は800円。

この800円が、奨学金を返している身にとっては決して小さくありません。

私は今も毎月数万円単位で奨学金を返済しています。
「コーヒー1杯くらい」と思っても、そうした“少しの贅沢”を積み重ねていくと、返済や生活費の中では無視できなくなる。
だから最近は、コンビニコーヒーを買う回数がだいぶ減りました。


出張先の「新幹線コーヒー」は、もはや高級品

仕事柄、月に数回ほど出張があります。
そのたびに新幹線を使うのですが、いつも悩むのが「改札を通った後のコーヒー」です。

新幹線の改札を抜けると、ちょっとおしゃれなコーヒースタンドがあります。
豆の香りが漂い、カップもしっかりした作りで、つい買いたくなる。

でも、値段を見ると440円。
たった1杯でコンビニ弁当1つに近い。

「いや、これは今じゃない」と自分に言い聞かせて、結局改札を通る前にコンビニで買うか、買い忘れたら我慢して新幹線に乗る。
そんなことが何度もあります。

昔も迷いながら買っていましたが、今はもっと悩み、諦めることも増えました。
それが今の現実です。


小さな我慢が積み重なっていく生活

「コーヒーを我慢するくらいで大げさだ」と思う人もいるかもしれません。
でも、貧困に近い生活をしていると、そういう“小さな我慢”が日常になります。

  • コンビニでおにぎりを2個買いたいけど、今日は1個にしておこう。
  • 電車を使うか、歩くか。
  • 外食をやめて、家で簡単に済ませよう。

そうやって、日々少しずつ削っていく。
その延長線上に、「コーヒーを買うかどうか」という選択もあります。

「頑張って働いてるんだから、コーヒーくらい飲んでもいいじゃない」と頭ではわかっていても、現実の数字がそれを許してくれない。
それが、奨学金返済という“固定費”を背負って生きるということなんです。


奨学金とコーヒー、どっちが重い?

奨学金の返済額は月に数万円。
それは、毎日コンビニコーヒーを10杯飲んでも届かない額です。

つまり、私のコーヒー代を何百倍も上回る金額を、毎月「過去の学費」として支払っているわけです。

それでも、あの学費がなければ今の資格は取れなかったし、仕事もできなかった。
だから後悔はしていません。

けれど、「あのとき借りたお金の返済が終わるまで、あと十数年」という現実がある限り、私はコーヒーを飲むときにすら“選ばされている”気がするのです。


コーヒーの値段に、人生の重さを感じる瞬間

たかがコーヒー。
けれど、たかがその数百円に、人生の“余裕”が表れます。

お金に余裕がある人は、気分でカフェに入って500円のラテを頼める。
時間に余裕がある人は、お気に入りの喫茶店で静かな時間を過ごせる。

でも私のように、日々の支払いに追われている人間にとって、コーヒーは「癒し」であると同時に、「我慢の象徴」でもあります。

財布の中身を見て、飲むか飲まないかを考える。
レジで小銭を数えながら、「今日はやめておこう」と手を引っ込める。
そんな日常の中に、貧しさの現実が潜んでいます。


それでも、たまに飲む1杯が救いになる

それでも私は、ときどき我慢をやめます。
出張の帰り、疲れ切った夜、コンビニの前でふと立ち止まり、ホットコーヒーを買う。
カップを両手で包みながら、「ああ、今日もよく頑張ったな」と思う。

その瞬間、たった140円でも、確かに“生きてる”気がするんです。

コーヒーは、ただの飲み物ではなく、“自分を少しだけ肯定できる小さな儀式”なのかもしれません。
だから、完全にやめることはできない。
たとえ高くなっても、時々はその温もりにすがりたい。


おわりに:小さな贅沢を取り戻せる日まで

私は、貧困の中で生きることを「諦め」ではなく「現実」として受け止めています。
だけど、そんな現実の中にも、少しだけ希望を持ちたい。

それは、たとえば「いつか気兼ねなくコーヒーを買えるようになりたい」という小さな願いです。

高級車も、ブランド品もいらない。
新幹線に乗る前に、迷わず500円のコーヒーを買える。
そんな“普通のこと”ができる日を目指して、今日も働いています。

「コーヒーが高い」と感じる今が、人生の底ではない。
きっと、もう少し先にある“余裕”を信じながら、明日もまた一歩ずつ。

それが、奨学金を背負って生きる私の、ささやかな希望です。

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