こんにちは、奨学金男です。
私は、父を高校2年で亡くし、母子家庭で3浪の末に6年制の私立大学へ進み、国家資格を取って働いています。社会に出る時点で背負っていた奨学金と教育ローンは総額2,100万円以上。毎月の返済を続けながら、どうにか生活を立て直そうともがいている最中です。
そんな私には、苦手な物語の型があります。
「不良が改心して、ちょっと頑張ったら、部活で大活躍して周囲から称賛される」という展開です。
昔はむしろワクワクして好きなほうでしたが、最近はどうしても苦手になってしまいました。勘違いしてほしくないのは、私が“更生”そのものを否定したいわけではないということ。人が過去を反省して新しい道を歩き出すことに、私はむしろ強く賛成です。私自身、社会の仕組みや働き方を疑い、毎日の小さな選択を積み直している最中ですから。
それでも、フィクションに頻出するあの“華やかな逆転”を読むと、胸の奥がざわつきます。なぜなら、その輝く主役の背後で、描かれないまま静かに押しつぶされていく「長い積み上げの時間」を感じてしまうからです。
見えないところで、誰かの努力が割り込まれている
不良が改心してチームに入る。周囲は最初こそ警戒するけれど、やがて彼の“根性”と“ポテンシャル”が覚醒し、レギュラーを奪い、決勝点を決める――。
この流れは、読み物としては痛快です。作者が用意した「ドラマの燃料」として機能し、ページをめくる手は止まりません。
でも、その“覚醒”の瞬間、私はいつも頭の中で、ベンチに座ったまま視線を落とす別の選手を想像してしまいます。
彼/彼女は、3年間――あるいはそれ以上――地味な基礎練を欠かさなかったはずです。朝はランニング、夜は反復。休日も学費や家計を助けるためにバイトをしながら、空いた時間をかき集めて自主練を続けてきたかもしれない。
その積み重ねを、「改心」「根性」「物語の都合」という言葉が一気に追い越していく。
現実にも、似たことは起きます。
“ちょっと頑張った人”が注目を集めて一気に先頭に立つ瞬間。けれどその背後には、何年も前から黙って汗を流してきた人の列がある。列は映らない。映さない。だからこそ、私は胸が詰まるのです。
努力の不採算――「かかった年数」が報われない世界
借金を抱えて社会に出ると、時間の価値が鋭く突き刺さってきます。毎月の返済、利息、滞納の恐怖。
“1年間”という時間は、私にとって「○○万円の返済に必要な労働の量」という具体の重さを持つ。だからこそ、努力には「採算」が頭をよぎります。今日の努力が、来月、来年、どのくらいの差分を生むのか。
不良が短期間で花を咲かせる物語は、私に「年数が報われない不採算」を思い出させます。
3年間の基礎練より、数週間の特訓と“主人公補正”が勝つ世界。
6年間の学費とローンより、職場の飲み会での一度の“印象戦”が評価を塗り替える世界。
現実にも、似た不条理は確かにあります。だからこそ、物語くらいは“積み上げた時間が報われる設計”であってほしい――わがままを承知で、そう願ってしまうのです。
「改心」は尊い。だけど、その輝きに“影”を描いてほしい
繰り返しますが、更生や改心は尊い。暴力から距離を取り、ルールの中で勝ちを目指す姿は、確かに胸を打ちます。私はそれを否定したいわけではありません。
ただ、私がもやもやしてしまうのは、改心の輝きが周囲の努力の影を“消してしまう”描き方に出会ったときです。
例えば、次のような描写があると、私は救われます。
- レギュラーを奪われた側の生活が丁寧に描かれている。彼/彼女の悔しさ、眠れない夜、翌朝の練習に向かう足取り。
- 改心した主役が「受け取ってしまった特権」を自覚し、ポジションを得た責任として、チームメイトの練習の下支えや雑務を率先して担う。
- 勝敗そのものより、“積み上げの尊さ”が物語の核として扱われ、ラストで光を当て直す。
フィクションが現実に与える影響は小さくありません。だからこそ、「輝きの裏に必ず影がある」ことを、物語の側が忘れないでほしい。
それだけで、私は安心してページをめくれるのです。
“コツコツ側”になり始めた私の、具体的な痛み
私は、大人になってから“コツコツ側”に来ました。だから、大人になってから改心して活躍する物語が苦手になったのかもしれません。
学力が高いわけでも、スポーツで突出していたわけでもない。家に余裕があるわけでもない。正直、学生時代に「これだけは頑張った」と胸を張れるものは多くありませんでした。
それでも大人になって返済を続けるうち、「このままでは本当にまずい」と思い、地味でもコツコツ続けることを選びました。
けれど、社会には“ショートカットの誘惑”がたくさんあります。
・学歴の肩書、
・話題性、
・一発で刺さる演出、
・「自分語りを盛る」ことでアクセスを爆発させる方法――。
借金があると、こうした誘惑は、ときに“甘美な選択肢”として目の前にぶら下がります。
でも、私はそれを選ばないでいる。なぜか?
自分の力ではそうした近道は長続きしないとわかっているからです。たいてい“うまい話”には裏がある。
そしてショートカットは、いつか“返済不能の利息”として戻ってくる――私はそう考えています。信用や人間関係、健康、そして自分への信頼。目に見えない残債は、利息のように膨らむのです。
「理不尽さ」を受け止めるための、三つの視点
現実は物語よりも理不尽です。
“ちょっと頑張った人”がスポットライトを浴び、長年やってきた人が日の目を見ないことは起き続けます。
そのたびに心が削れてしまう私が、どうにか折れないために持ち歩いている視点を三つ書いておきます。私と同じように苦しくなる人の小さな役に立てば嬉しいです。
①「比較の時間軸」をずらす
今日の勝敗で比べない。3年、5年、10年という軸で自分の足跡を見る。
借金返済も同じで、今月の残高だけでは折れる。長期の返済計画の中に、今日の入金が一本の線として刻まれていく“俯瞰図”を持つと、呼吸が戻ってきます。
②「可視化されない成果」を記録する
努力は多くの場合、点数になりません。
だから自分で可視化する。
・続けた日数、
・失敗の回数、
・断った誘惑のメモ、
・昨日より1分だけ早く起きられた印。
人に見せるためではなく、自分が自分の証人になるために。
③「他者の物語を奪わない」
改心の物語が苦手でも、その人が実在するなら尊重する。
同時に、積み上げてきた人の物語も奪わない。
「どちらか一方が正しい」ではなく、「どちらも重い」。そう認めることで、私の中の尖った棘が少し丸くなります。
部活という縮図、社会という現場
部活は小さな社会です。そこには、役割の偏り、指導者の好み、場当たりの采配、偶然の風向きが混ざり合う。フィクションは、そこに“カタルシス”を注入して、観客に快感を渡す。
けれど現実の社会では、カタルシスの代わりに責任が降ってくる。ポジションは“奪う”だけでなく“受け持つ”ものだからです。
だからこそ私は、“改心して輝く側”の物語にも、背負う責任の重さが描かれてほしいと思う。
見事に描かれた作品では、私はむしろ胸を打たれます。遅れてきた才能が既存の努力を踏みにじるのではなく、支える側に回る覚悟を見せたとき、チームは「勝ち方」を一段引き上げる。
その瞬間だけは、私の心の重石がふっと軽くなるのです。
「奪い合い」ではなく「積み合い」へ
貧困は、ときに人を“奪い合い”へと追い込みます。限られた椅子、限られた奨学金、限られた求人。
けれど、奪い合いは視野を狭め、心を荒らします。
私がこのブログでやりたいのは、積み合いの実験です。
・失敗の共有、
・節約の工夫、
・時間の取り戻し方、
・資格や学びの再設計。
読んでくれた誰かの時間が1ミリでも節約されるなら、それは私の“積み合い”の成功です。私が歩いた遠回りを、あなたはショートカットできる。これは“良いショートカット”。誰かの積み上げを踏みつけるのではなく、肩車のように視界を広げ合うから。
それでも物語を愛したい
私は物語が好きです。
だから、苦手な型であっても、そこで得られる感動があることも知っています。
願いはひとつ。積み上げを傷つけない逆転劇を、私はもっと見たい。
誰かが改心して輝くなら、同時に、黙々とやってきた人の努力にも、同じだけの光を。
ページの外にいる読者の中にも、長い時間を積んできた人がいる。
その人が本を閉じたあと、「自分の時間は無駄じゃない」と静かに思えるような物語を、私は信じたいのです。
結びに
「不良が改心して、ちょっと頑張ったら部活で無双する」物語に、私は理不尽を感じてしまいます。
それは、積み上げてきた人たちの時間が、物語の都合で“安売り”される瞬間を見てしまうから。
現実は十分に不条理です。だから、せめて私たちの現場では、誰かの積み上げを踏み台にしない勝ち方を選びたい。
私は今日も、返済の明細に震えながら、地味な基礎を続けます。
あなたがあなたの場所で、積み上げを続ける勇気を少しでも取り戻せますように。
そして、いつかどこかで、積み上げ同士が支え合って勝ちに変わる瞬間を、一緒に見られますように。


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