「グエー死んだンゴ」のムーブメントについて考える|生きたいのに生きられない人がいる世の中で、私はまだ生きている

人生論・貧困・奨学金

こんにちは、奨学金男です。

ネットで見かけたひとつの投稿が、頭から離れませんでした。
それは、ある22歳の若者がこの世を去ったあとに残した、たった一言の投稿。

「グエー死んだンゴ」

──その言葉を、あなたも見たことがあるかもしれません。
SNS上では、この投稿が何万回も拡散され、追悼のコメントや寄付の輪が広がりました。
彼の名前は、なかやまさん(中山奏琉)
北海道出身の元大学生で、希少がんを患い、2025年10月12日に22歳という若さで亡くなりました。


「死んだンゴ」が生んだ、優しさの連鎖

「グエー死んだンゴ」。
この一文だけを見れば、ふざけたようにも見えるかもしれません。
けれど、彼の背景を知ると、それがどれほどの勇気とユーモアの結晶だったかがわかります。

なかやまさんは、年に20例ほどしか報告されない希少ながんに罹り、闘病生活を続けながらも、SNSで明るく発信を続けていたようです。
「多分そろそろ死ぬ」――そんな言葉を、自分で冷静に書ける人が、どれほどいるでしょうか。

死の恐怖を正面から見つめながら、最後まで明るさを保ち続けた。
そして、自分がいなくなった後の世界に、ユーモアと優しさを残した。
その一言が、誰かを勇気づけ、誰かを泣かせ、そして誰かを動かしたのです。

実際、彼の死後には「香典」として国立がん研究センターへの寄付が3万件以上集まったそうです。
一人の死が、こんなにも多くの“善意”を生む。
──それだけで、もう十分に「生きた証」だと思います。


「生きたかった人」と「生きている私」

彼の投稿を見たあと、私は夜、静かな部屋でひとり考え込みました。
「私は、何のために生きているんだろう」と。

私は、父を高校2年で亡くしました。
それも、がんで亡くしています。
だからこそ、彼の死は私に深く刺さりました。

母子家庭で育ち、3浪して私立大学の6年制学部に進学。
国家資格を得たものの、卒業時点で奨学金と教育ローンの合計が2100万円を超えていました。

社会人になってからも、ずっと「返済」がつきまとう。
仕事がつらくても、辞めるという選択肢がない。
家賃、光熱費、食費、そして奨学金の返済。
毎月ギリギリの生活を続けながら、「生きるって、なんなんだろう」と思う日が少なくありません。

でも──
そんな自分の「しんどさ」を、なかやまさんのような人の「生きたかった想い」と比べたとき、言葉を失いました。
私が「死にたい」と思う夜にも、「生きたいのに生きられない」人が確かに存在している。
その事実が、胸の奥を静かに締めつけます。


生きていることに、意味を求めすぎない

正直に言えば、「生きる意味」なんて、簡単に見つかるものではありません。
むしろ、無理に意味を探そうとすると、苦しくなる。
「自分は誰かの役に立てていない」「何も成し遂げられていない」と、どんどん自分を責めてしまう。

けれど、なかやまさんのように“生の終わり際”をユーモラスに受け止めた人を見ると、
生きること自体に「意味」をつけなくてもいいのかもしれない、と思えてきます。

呼吸をして、食べて、眠って、誰かと会話する。
それだけでも、人間として十分に尊い行為なんじゃないか。

私たちは、すぐ「成果」や「価値」を求めてしまうけれど、
「ただ今日を生きた」という事実も、立派な功績だと思います。


SNSの向こう側にあった“人間のやさしさ”

なかやまさんの投稿が拡散されていく過程で、私は久しぶりに「ネットが優しい場所になる瞬間」を見ました。
誰も彼を笑いものにしなかった。
むしろ、ユーモアの奥にある「生き様」に敬意を表し、寄付という形で彼の意思を引き継いだ。

普段は炎上や誹謗中傷で溢れているSNSも、
本気で生き抜いた人の声の前では、少しだけ静かになった気がします。

「成仏してクレメンス」
そんな言葉が、タイムラインに溢れていました。
そこには、競争も、見栄も、承認欲求もなかった。
ただ、“人間のやさしさ”があった。


「生かされている」という感覚

私は、いまも奨学金を返済しながら、なんとか日々をやりくりしています。
毎月の明細を見るたびに、「あと何年これが続くんだろう」とため息が出ます。
でも最近、少しだけ考え方が変わってきました。

私は、たまたま「生かされている」。
父が亡くなっても、母が支えてくれて、大学に行けた。
身体も健康で、働けて、こうして文章を書くことができる。

誰かが見えないところで奮闘してくれたから、私は今ここにいる。
そう思うと、自分の命も、もう少しだけ大事にしようと思えるのです。


「生きたい」と願った彼の代わりに

なかやまさんが、もし今も生きていたら、どんなことをツイートしていたでしょう。
けれど、彼はもうこの世界にはいない。
その現実が、あまりにも静かで、あまりにも重い。

だからこそ、私は思います。
「生きたい」と願った彼の代わりに、私は生きよう。

それは大げさな使命感ではなく、
今日もご飯を食べて、仕事に行って、疲れて眠る──
そんな小さな「生」を続けることこそ、彼への敬意なのかもしれません。


「生き延びる」だけでも、十分すごい

貧困も、借金も、孤独も、全部つらい。
それでも、明日を迎えることができるなら、それでいい。
死にたい夜を何度も越えて、今日も息をしている。
その事実が、すでに奇跡です。

私が今、生きている理由を聞かれたら、
たぶんまだうまく答えられません。
でも、少なくとも「生きたい」と願った人の分まで、
生き延びようとは思います。

生きていれば、苦しいこともあるけれど、
同じだけ、誰かの優しさにも出会える。
そして、その優しさは、きっとどこかで巡り巡って、
また別の誰かの命をつないでいく。


終わりに──“死”が教えてくれた“生”

「グエー死んだンゴ」。
この一言が、これほどまでに多くの人の心に残ったのは、
彼が“死”の中に“生”を見せてくれたからだと思います。

死を笑いに変えた彼の強さ。
笑いながらも、本当はどれほど怖かったか。
その勇気に、心から敬意を表します。

そして私は、今日も生きています。
奨学金の返済に追われながら、ため息をつきながら、
それでも、もう少しだけこの世界にいたいと思っています。

「生きたいのに生きられない人がいる世の中で、私は生きている」
──それを忘れずに、今日もまた働き、食べ、眠ります。

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