こんにちは、奨学金男です。
昨日で、「ブログ毎日更新100日チャレンジ」が終わりました。
正直、少しホッとした気持ちと、「これからどうしよう」という不安が入り混じっています。
100日間、毎日書くのは想像以上に大変でした。
仕事を終えて帰宅し、眠い目をこすりながらPCの前に座る。
アメリカ出張中に心が折れそうになった日もありましたが、それでも数行だけでも更新した日もありました。
ネタが思いつかない日も、心が沈む日も、それでも「更新だけは切らさない」と決めて続けてきました。
だけど、今日――101日目。
その「継続」を続けるべきかどうか、少し立ち止まって考えています。
なぜ100日続けたのか
もともと私は、何かを「続ける」ことが苦手でした。
三浪して大学に入った頃から、常に「周りより遅れている」という焦りを抱えて生きてきました。
奨学金の総額は2100万円を超えています。
働いても返しても、残高はなかなか減らない。
そんな現実の中で、せめて自分にできる「何か」を積み上げたかったのです。
そんなとき、大塚あみさんが書いた『#100日チャレンジ』を読んで感動しました。
だからこそ、「100日間、毎日書く」という目標を立てました。
たとえ誰にも読まれなくても、「自分だけは諦めなかった」と言える証を残したかったのです。
100日間で得たもの
率直に言うと、「アクセス」や「数字」だけを見れば、ほとんど成果はありませんでした。
X(旧Twitter)で大塚あみさんにリポストしてもらえたおかげで、昨日の記事だけはいつもより多くの人に読んでもらえましたが、閲覧者はまだ少なく、SNSでバズることもありませんでした。
でも、それ以上に得たものがありました。
それは、「思考を言葉にする習慣」です。
毎日、自分の内側を掘り下げる。
「なぜ今日も疲れているのか」「なぜ人間関係がうまくいかないのか」「なぜ将来が怖いのか」。
文章を書くことで、ようやく自分と向き合えるようになったのです。
そして気づきました。
「自分が弱者であること」を認めることが、スタートラインなんだと。
「継続=正解」ではない
100日書き終えて思ったのは、「継続は大事だけど、それだけが正義ではない」ということです。
世の中には、「続けることがすべて」と言う人が多いです。
でも、続けるだけでは前に進まないこともある。
同じ場所で足踏みをしているだけの継続は、自己満足でしかないのかもしれません。
私の場合、100日間で得たのは「習慣」でしたが、同時に「惰性」も感じていました。
「書かなきゃ」という義務感が先に立ち、文章を書く楽しさを忘れかけていたのです。
少なくとも、私のブログは「私と同じように貧困に苦しんでいる人を少しでも勇気づけたい」という思いで書いています。
その人たちに、どうすればもっと届くのか――そこを考えなくてはいけないと気づかされました。
誰も見ていない孤独と、それでも続ける意味
100日ブログを書き続けると、現実的な孤独に直面します。
コメントも反応もない。
記事を公開しても、誰かの心に届いた実感がない。
夜中に投稿ボタンを押しても、世界は何も変わらない。
それでも私は、画面の向こうに「過去の自分」がいるような気がして、書き続けました。
数年前、大学入学を控えて不安だった自分。
社会に出て、奨学金の返済に苦しみながら生きている自分。
そんな自分に向けて書いている感覚が、今の支えです。
たとえ読者がいなくても、言葉は自分の中に残る。
それが、孤独な継続を支える唯一の希望でした。
そして今は、それでもやっぱり「困っている誰かの支えになりたい」と思う気持ちが、私を動かしています。
継続に疲れたときに必要なのは、「やめる勇気」
「やめる」という言葉には、どこかネガティブな印象があります。
でも、私は最近、「やめる勇気」も大切だと思うようになりました。
惰性で続けることは、時に「逃げ」でもある。
やめることでしか、見えてこない景色もある。
たとえば、書くことを一度休んで、読むことに集中してみる。
現実の人との関わりを増やす。
それもまた、自分を成長させる「継続」の一つの形かもしれません。
私がもう一度「書こう」と思う理由
ただ、それでも今日、こうしてキーボードを叩いています。
理由は単純で、「書くことが、自分を保つ手段だから」です。
私は、誰かに勝つために書いているわけではありません。
誰かに認められたくて書いているわけでもない。
書くことで、自分を壊さずに生きていける。
貧困や劣等感や、報われない現実に押し潰されそうなとき、言葉は自分を守ってくれる盾になる。
だから、今日も書いています。
それが、「続ける理由」でもあり、「生きる理由」でもあるのかもしれません。
これからどうするか
「毎日更新」は、もう目標ではありません。
今後は、「意味のある更新」をしていきたいと思います。
毎日書くことにこだわるよりも、心が動いたときに、誠実に言葉を紡ぐ。
誰かの役に立つ記事を書けなくてもいい。
それでも、「本音」を書くことだけはやめたくない。
ブログを書くことは、私にとって「自分の存在証明」です。
奨学金を返しながら生きるこの現実の中で、
社会の片隅に生きる弱者として、それでも自分の声を残したい。
そして、あわよくば、同じように苦しんでいる誰かに届いてほしい。
だから、更新は「毎日」ではなくなるかもしれません。
でも、「書くこと」そのものは、これからも続けます。
おわりに:“弱さ”の中にしか、希望はない
100日間、文章と向き合い続けて感じたのは、
「人は、弱さを受け入れたときにしか強くなれない」ということです。
私はまだ貧乏です。
奨学金も減っていません。
恋人もいません。
それでも、「それが今の自分だ」と受け入れられるようになったのは、
この100日間、毎日自分と向き合ってきたからです。
ブログを書くことは、弱さを可視化する行為。
でも、その弱さこそが、誰かの救いになることもある。
だから私は、これからも書きます。
不器用でも、情けなくても、正直でありたい。
もしこの文章を読んでいるあなたが、
「何かを続けても報われない」と感じているなら、
それでも、「やめなかった自分」を、少しだけ褒めてほしい。
継続は、成果を出すためのものではなく、
生きるためのリズムです。
そして私は、これからもそのリズムで、静かに生きていこうと思います。
まとめ
- ブログ100日更新を終えた後に感じた「継続の意味」
- 続けることの「惰性」と「覚悟」
- 「やめる勇気」もまた、前に進むための選択肢
- 弱さを認め、自分と向き合うために書く
- 「毎日更新」よりも「意味のある更新」へシフト
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